紅い月


 人の叫び声。何かの壊れる音。
 昨日まで普通に自分の過ごしてきた場所が無惨に壊されていく。
『カレンッ早く逃げるんだ。ついて来い』
 手が強く引かれ、その手につられるままに体が動く。分かっているから。そうしなければ死んでしまう事が。なんで、こんな事になったの?お父さんは?お母さんは?ぐるぐると疑問が頭の中をまわる。
 二人で通り抜けた道には紅い水たまりができていた。さっきまで人だった物が目に映る。
『どこいくの?』
『お前は絶対に喋るな』
 大きくはないが強い兄の声。ふだんは聴いた事もなかった声。村を壊した男の1人が追い掛けてくるのに崖へ向かって逃げようと手を引く兄。
 この時兄が何を考えているか分かったのなら、今私はここにいないだろう。
 兄は追い掛ける男から微妙な角度で私を隠しながら走る。
『カレン、いいか。絶対に生きるんだ』
 走りながらそう言われた。崖が少しずつ見えてくる。崖のギリギリのところで静かに兄が背を押した。一瞬体が宙に浮き、重力に従って落ちていく。浮いた瞬間に見えた村を壊したやつらの顔、落ちる途中で見えた兄の死に顔。
 落ちきって地面に叩き付けられた。兄は正しかった。崖と言ってもたいした事のない崖。死にはしない。そして、隣街への一番の近道。
 けがした足を休ませて見上げる月は紅かった。降り注ぐ雨は私の体を紅く染めた。

 目を開けて空を見る。その空は当たり前のごとく青い。
「また昔の夢を見たの?」
 首をかしげながらリィンが顔を覗き込んでくる。
「ああ、早く起きたんだな」
「よく平気ね。そんな夢見て。ねえ、いつか壊れちゃうわ。忘れ……」
 リィンを強い視線で睨み付けた。リィンはリュンエンまでの同行者だ。そこへつけば私はさらに北のキルクスをリィンは東のキザンをめざす。
「夢を見るのも死ぬのも恐くない。むしろ夢を見れなくなる事の方が恐いな。夢の中で見れるあいつらの顔以外に手がかりはないからな」
 あいつらを見つけて仇を討つ。女を捨てて男になって、それだけを胸に生きてきた。それが兄の望んだ生き方出ないであろう事は知っている。でも、他に何を望んでいいか分からなかったのだ。
「何で敵討ちをしようと思ったの?」
「お前が家を出ようと思ったのと同じだ。」
 リィンは特殊な使命を背負った村に生まれたと語った。村の中で一番大切なのはその使命で、使命のためなら親が子を殺し、昨日まで共に戦った仲間を殺す。それに反感を抱いて村を飛び出した。
「同じ?」
「変わらない現実への反感を他の物向けてそれを合理化する。」
 訝しげに聞き返したリィンに静かに答える。私達の違いは私はそれを理解しながら、リィンは気付かずにしているところ。いや、心のどこかではリィンも気付いている。
「私はそんなんじゃないわ。」
「そうだよ。俺はもう家族や村の人が1人もいない事、お前は村の状況を変えられない事。その事実から逃げてるだけ。」
「……分かってるなら何故?」
「逃げる方が楽だから」
 言い切ってから荷物を肩にかけて立ち上がる。何も言わずに行くぞと促す。
「今日中にはリュンエンにつくだろう。そうしたらお別れだな。まあ、1ヶ月楽しかったよ。」
 リィンは黙って立ち上がった。二人で言葉を交わす事もなく歩き続けた。

「ねえ」
「なんだ?」
「まだ貴方の目には月は紅く見える?雨は血のように服を紅く染める?」
 リィンは静かに抑揚のない声で淡々と聞いてきた。率直な質問に一瞬次の言葉を奪われる。
「……分からないな。でも、目を閉じて記憶によぎる月も雨も紅い。」
 本当に月も雨も紅かった?その前に見た、仲間の血が月を雨を紅く見せただけだったのかもしれない。
「記憶なんて曖昧だもんね。」
「リィンは村を出て幸せになれた?」
「幸せになりたかったわけじゃないから。本当の人間の生き方はこうじゃないって思って、いろいろな国を見てその考えか正しいんだ、って思いたかったのかも。でも、もしかしたら本当は逃げたかっただけかもね。何かを何かを見つけたかったの。」
「そうか、今度会う時には何かを見つけてるかもな。」
 リィンは少し驚いた顔で私を見てから少し笑って言った。
「……じゃあ、貴方は月も雨も紅く見えないかもね。」
「かもな。」
 本当はそんな事は分からない。私もリィンもそんな簡単な事じゃない。
 何をしようと本当にどうにかしたい現実は変わらないのだから。
 あいつらを殺せば本当に月の上に塗られた、雨に混じった仲間の血は洗い流されるのだろうか?私は血の上に血を重ねているだけなのかもしれない。
 今度会う時私の目には月は光って見えるのだろうか?
 黒く塗りつぶされ色を失ってないだろうか?



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背景画像「◇†◇ Moon drop ◇†◇」様