「窓」


  その部屋は何もかもが白かった。

 天井から床に至るまで、ありとあらゆる物が白で統一されている。もっとも、家具といえる物はたった一つのベッドくらいなもので、他には水さしの載った小さなワゴンと椅子があるだけ。そして、それも白く塗られていた。
 そう、ここは紛れもなく『病室』だった。

 ベッドの上には、一人の老人が身じろぎもせずに横たわっていた。ベッドの支柱から何本も伸びた管は、その老人の命をつなぎ止めていると同時に、ベッドへと縛り付けてもいるようだった。
 しわだらけの顔からは、かなりの高齢という以外、表情すら読み取れなかった。薄く開いた瞳は、この音のない部屋で、先ほどから壁の一点を見つめたままだった。

 老人の視線の先だけが、この部屋で唯一白くない部分だった。壁にポッカリと四角くくぼんだその『窓』のようなものは、灰色にくすんで見えた。老人はしばらくそれに見入っていたが、やがて意識を白いもやに包まれ浅い眠りへと落ちていった……。



「……あら、気が付いた?」
 次に目が覚めた時、老人のベッドの傍らには、いつの間にやら少女が一人座っていた。年の頃は十代前半、金髪、碧眼、色白、まるで人形のように愛らしい少女はしかし、その年頃には似つかわしくない真っ黒な衣裳をまとっていた。
 老人は驚いたものの、彼女には目もくれなかった。それどころか追い払おうと、ナースコールのスイッチを探して、管に邪魔されつつ左手をまさぐった。しかしそこにある筈のスイッチはどこにも無かった。
「残念ね、それは手の届かないところにあるわよ」
 口元に笑みを浮かべつつ、まるで見透かすように少女が言った。
「あら、私がやったと思っているの? あなた自身がやったのよ」
 見ると、壁からはえているスイッチのコードは、床へとだらしなく垂れ下がっている。きっと眠っている間に、無意識にスイッチを払いのけてしまったのだろう。老人はスイッチを諦めたが、悪いのはお前だ、と言わんばかりに忌々しげに少女を睨みつけた。
「そうやって、私のせいにするのね。あなた達はいつも同じ」
「……」
「私が『干渉しない』のは知ってる事でしょ?」
「……」
 なおもしばらく睨め付けていた老人だったが、冷ややかな少女の視線と氷の微笑みに耐えきれなくなり、ついにその目をそらした。その視線は自然といつもの壁の一点に移っていく。
「久しぶりに来たというのに、随分と冷たいのね」
 少女は悪戯っぽくクスッと笑う。
「初めて来た時は、もう少しで心臓麻痺を起こしかけたというのに」
「……」
「まぁ、また『それ』を見ているの?」
 老人の視線の先にある灰色の『窓』に気づいて、少女が言った。老人は少女を無視してそれを見つめ続ける。
「およしなさいよ、趣味が悪いわよ。それとも、少しは反省でもしたのかしら?」
 『反省』の単語に老人は鋭く反応した。ベッドに内蔵された心拍数検知器が、このとき跳ね上がった数値を記録している。
「みんなあなたがした事でしょ? 違うと言うの?」
 血圧計も上昇し続けていたが、老人は努めて平静を保った。
「……ま、いいわ。私には関係のない事だもの。寿命と無関係に死んだ人間なんか興味ないわ」
 冷ややかな笑みを絶やさず、少女は続けた。
「でも、あなたが押した『あのボタン』のせいで、世界中の人間の寿命が縮まったってのは、ご存じ?」
 自動注入された血圧抑制剤の効き目を相殺するかのようなアドレナリンの分泌が、このとき起きた。老人の顔は、近年まれに見る程の血色に染まっていた。
「長い事ここへ来られなかったのもそのせいよ。あなたの言う『正義の鉄槌』のお陰で大忙し」
 老人の呼吸が浅く速くなり、酸素の血中濃度が低下してきた。顔色がみるみる悪くなっていく。
「その『窓』の映像はどこだったかしら? ……テキサス? 灰色の氷に閉ざされた故郷の風景は、あなたに何をもたらすというのかしら? 癒し? 懺悔? それとも単なる逃避?」
 いまやベッドに内蔵された生命維持装置の機能はフル回転状態であった。枕元からは酸素まで吹き出してくる。老人はいつしかベッドの柵を力いっぱい握りしめていた。やがて……腕の力みも次第に弱まり、荒かった呼吸も緩やかになって老人は平静を取り戻し始める。
「……今度のはなかなか優秀な『ゆりかご』のようね」
 少女は軽く肩をすくめて立ち上がった。
「いいわ。お迎えは、またこの次にするから」
「……」
「それまでお大事に、ね? ジョージ」
 少女の居なくなった部屋で、老人はまた、視線を『窓』へと向けた……。




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