氷の温度 私の温度


「こらこら、さぼっていたらバイト代出せませんよ」
「ごめんなさい〜働きますからそんな事言わないで、お兄様」
「はいはい。ちゃんと出してあげますよ。」
 長期休みになるといつも実家の近くで花屋を経営する従兄の元でバイトをする。血筋なのか私の両親も叔父夫婦も放任主義でほとんど家に帰ってこない。長期休みに寮から帰ってきても家に誰もいないで1人の私を見兼ねたのだろう。人手が足りないから、そう言って誘ってくれた。
「きゃ〜お兄様愛してる」
 『お兄様』そう呼ぶ事でオブラートに包んだ告白。
「よく知ってますよ」
 嘘つき、何にも分かっていないくせに。
「あっバケツ洗ってきちゃうね〜」
「お願いします」
 兄さんが店を持つまではまるっきり生活が逆だった。長期休暇のたびに帰ってくるのは兄さんで、私はいつもそれを家で待っていた。しばらくしてうちの近くに店を持ってそれからはいつも一緒だった。私が寮に入るまで。
 バケツを洗っていると足に飛んでくる水が気持ちよくてわざと足に水をかけた。
「気持ちい〜」
 来年は受験生になる。行きたいところが決まってないわけじゃない。でもふと不安になる。まるで足下に氷水があるような気がする。冷たくて、痛くて足がうまく動かなくて。なのにぼーっとしていると足下が凍り付いて身動きがとれなくなってしまいそうで……助けを求めたい、でも誰に求めていいのか分からない。私には氷を溶かすような力はない。溶かしてくれる人はいない。
 洗い終ったバケツを重ねてまとめて持ち上げる。園芸関係のことを学べるような大学に行きたい。そう言ったら兄さんはどんな顔をするだろう?否定されるのが恐い。
「兄さん、洗ってきたよ。」
「御苦労様、外の仕事頼めますか?」
「別にいいけど、そんな予定あったの?」
 そう答えながら、花束などの予約表を見る。場所によって鞄や服装を選ばなければならない。
「いいえ、夕方に店を締めてからいく予定だったんです。でも、今日はお客が少ないし、京子に行ってもらおうかなと思いまして、時子さんのお宅です。」
「えっそれって私じゃ……」
 時子さんは近所のおばあさんで月一回ぐらい兄さんを家に呼んでは庭の花や木の様子を見てもらっている。つまり、お届け物などとは違いそれなりの知識が必要なのだ。
「大丈夫ですよ。私が保証します。ああ、時子さんは話し相手が欲しくて頼んでいるところもありますのでそれもよろしく」
 何か言おうとして兄さんの顔を見ると満面の笑みを浮かべている、小さくため息をついてエプロンをとった。どうせこの顔に逆らえた事など一度もないのだ。

「ありがとうね、わざわざ来てくれて」
「いえ、私なんかでお役にたてたかどうか」
「とっても助かりましたよ。高校生でしたっけ?詳しいのね」
 人並み以上には詳しくてもそれが食べていける程度なのかは分からない。
「将来そっちの方にすすめたらなって気持ちがあって」
 誰かに言ってみたかった。でも不安が大きくてよく知っている人には言えなかった。それはきっと園芸が本当に自分のめざすものか分からないから。心のどこかで兄さんの影響を受けただけじゃないかと自分でも思っている。
「まあ、あなたならきっとうまく行くわ。頑張って」
「なんで……」
 自分の中で自分の気持ちが分からないそれなのによく知らない人が何でそんな事言い切れるの?理不尽な気持ちが心に浮かんでくる。
「だって、貴女とっても優しそうな顔で植物に触れるもの」
 そうか、そうなんだ。確かに興味を持ったのも好きになったのも全部兄さんの影響だけど、大切なのは今私が好きだという事。
「ありがとうございます」
「いいえ、また来月よろしくお願いしますって伝えて下さる?」
「はい、今後ともよろしくおねがいします」
 ぴょこんと頭を下げて門をくぐる。少し、足の痛みがとれて歩けるような気がする。でも、一時的な物。氷水はなくなっていないし陸も見つからない。このまま氷付けになってしまったらどうなってしまうのだろう?どうしたらいいのだろう?
「もう店は閉まってるよね」
 行きの道とは違う店でなく家の方の道を歩いていく。この道も小学生の頃はよく通っていたけどもう年に数えるほどにしか通らない。これが大人になると言う事……
 兄さんは帰ってきた。でも私はどうするのだろう?
 ベルを押してから返事を待たずにドアを開ける。ただいまとそう言える相手がいる事に私がどれだけ救われているか兄さんは知ってるだろうか。
「ただいま。」
「お帰りなさい、京子。いい物があるんですよ。」
 にっこりと笑ってそう言ってから家の奥に入っていく兄さんの背中の服をつかんだ。
「どうしました?」
「あのね、こうやってただいまって言えるのが嬉しいの」
 今まで言わなかったこんな事を何故いきなり言いたくなったのだろう?伝えたからといってなくさずにすむとは限らないのに。
「私は京子にお帰りといわれるのが嬉しくて帰ってきてましたよ」
「ええっ」
 その言葉に驚いて服を放すと、兄さんは楽しそうに笑いながら家の奥へ歩いていった。
「ちょ、あの……どういう意味?」
 そう言いながら追い掛けて入ったリビングの食卓の上に花が並んでいた。
「何これ……?」
「氷付けにした花です。一度沸騰させてから氷にすると透明な氷になるんですよ。」
「ふ〜ん、そういえば、兄さんこういう科学実験みたいなの好きだったよね」
 きれい、ふっと手を伸ばして氷にゆっくりと触れた。夏の暑い時期には気持ちいい冷たさが手を伝わってくる。指のあるところが少し溶けてへこんでいく。
「気温がどんなに寒くなっても人間は35度前後だから、触れたら溶けちゃいますよ。」
「え?」
「氷付けになってしまったら、溶けるまでのんびりしてればいいんです人間が傍にいれば絶対溶けちゃいますから。それに、人間は暖かいからそう簡単に氷付けにはなりませんよ。」
 にっこりと笑いながら諭すようにそう言う。まるで私の考えている事はお見通しとでも言うように。
「……でもっ……」
「貴女が思っているより貴女は暖かくて、貴女の周りを暖めてくれる人はいるんですよ」
「兄さんは本当に私のことなんてお見通しってわけ?」
「まあ、おむつまで変えてあげた可愛い妹のことですから。」
 苦笑しながらそう言う。何かを思い出すように兄さんはそう言うけど私は覚えていない。
「ああ、でも京子は突拍子もない事をよくする子で退屈は全然しませんでしたよ」
「……どゆ意味?……ねえ、高学生ぐらいの時に私を理由に女の子ふった事があるって本当?」
 心のどこかでこの事を聞いた時からもしかしたらと期待していた。だから、聞かなかった聞いたら、期待ができなくなってしまうから。
「ええ本当ですよ。妹がいるからおつきあいとかする余裕はありませんって」
「……私はいない方がよかった?」
 やっぱり妹なの?
「何でそんな事を?」
 兄さんは本当に不思議そうに聞いてくる。
「だってっ」
「京子が毎日傍にいて、色々変わっていくからそれを見ているだけで十分だったんです。他の女の子を見ている余裕はなかったんですよ。」
 その言葉は期待してもいいってこと?
「京子はいつも自分で知らないうちに私の氷を溶かしてくれてたんですよ。」
「……ねえ、私園芸について学べる大学行きたいの。それでね、もし、受かったら聞いてほしい事があるの」
「待ってますよ」
 足はまだ冷たいし痛いけれど歩き出す事ができないほどではない。それに、もう氷付けにされる恐怖はない。



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