桜、夜語り
桜の樹の下には、死体が埋まっている……。
あまりにも有名な、誰でも知っているフレーズ。 「それで?」 「でもね、俺、本当に死体を埋めたんだ」 「えぇ?!」 「……月が綺麗な夜だった」 「高志、文化祭のテーマの題材、何にする?」 声を掛けられて高志は一瞬躊躇した。 以前部活の仲間に気軽に題材を漏らしたばかりにイメージを盗まれた事がある。 皆ライバルだ。今回は少なからず自信が有る。今度こそ、の思いも強かった。 「……内緒だよ〜ん」 「なんだよ、秘密主義かよ」 ふん、と俯いて部室の中だというのに煙草に火を点ける、そいつ。 「止めとけよ、宏芳。誰か来たらどうすんだよ」 「……そしたら、お前が吸ってたって言うさ」 ゆっくりと煙を吐き出しながら口の端で笑う。 彼がそう言えば、教師はそれを信じるだろう。 宏芳は優等生で教師達の信認も厚かった。 「なあ高志、まさか、俺を裏切ったりしないよな?」 「裏切る?」 「つまり、俺を出し抜いたりしないだろう? 幼馴染だもんな?」 そう、望むと望まざるとに拘わらず二人は幼馴染だ。 高志の父と、宏芳の母は同級生で、家も近所。 「絵を描くのに出し抜くも何もないだろう。お前はいつも素晴らしい絵を描くじゃないか。 俺なんか、いくら頑張ったって多寡が知れてるよ」 「じゃあ、題材は? 言えよ、高志」 ……何故だろう、今回ばかりは誰にも言いたくなかった。 「だから、内緒だって」 瞬間、宏芳の瞳に強い光が宿る。 「……そうか。解った」 そして、彼は部室を出て行った。 高志は誰がどう見ても普通の高校生だ。 眼鏡を掛けたその容姿もさることながら、体格も所謂中肉中背、ことさらに勉強が出来るわけでもなく、スポーツに抜きん出ている訳でもない。 宏芳とは偉い違いだ、と自分でも思う。あの幼馴染はどこに居てもひどく目立つのだ。 すらりとした長身、長い手足。彫りの深い顔立ちで一部の女子の間には“柳沢宏芳ファンクラブ”が結成され、不可侵条約なるものが存在するらしい。子供の頃から何かにつけて比べられてきた。それでも小さい頃は、そんな宏芳と友達だという事が誇らしかったものだ。宏芳の方も高志が苛められていると庇ってくれたりもした。 何時の頃からか、彼が傍に居ると落ち着かない自分がいる。 それは、おそらく高校で同じクラブに入ってからだ。 絵を描くことはたった一つ高志の得意なことで。 高校で美術部に入ったのは彼にとっては呼吸をする様に当たり前の行動だった。 意外だったのは宏芳までがまるで釣られたかのように美術部に入部した事。 更に意外だったのは彼の描く絵が非常に繊細で、うっとりするくらい上手だった事だ。 中学までは体育会系で、そんな素振りを見せなかった筈なのに。 「前からこんな画風だったっけ?」 一度我慢できなくて確認したことがある。 彼は口元にだけ笑みを浮かべて答えた。 「人間なんて変わっていくもんだろ」 宏芳の筆が描き出す世界は、当に高志の表現したいそれと余りにも近すぎた。 悔しくて、羨ましくて、同じ人間なのに何故あいつはあんなにも何もかもを手にしているんだろう、と。 彼の描き上げた絵を見ては何度もそうだ、これだ、と思うのに、自分では描ききれない。 涙が出るくらい情けなかった。 今度こそ、この文化祭こそ。 三年生の今、最後の文化祭。 テーマは時期はずれの“桜樹”。 高志の頭の中には最初から一つの映像が存在した。 駅を降りて、学校へ向かう道筋には桜並木が有る。 葉桜の時期には『傘がいるかもね』等と軽口を叩くくらい毛虫に悩まされ、落ち葉の時期には掃いても掃いても無くならないのではないかと思うくらい箒を振り回させられたりしたが、春の花の時期にはそれはそれは美しい薄桃色のアーチの中を登校することになる。 そんな一日にふと眼に留めた少女。 降りしきる花吹雪の中、艶やかに微笑んでいた。 彼女を描いてみたい。同じクラスの高橋由香里。 彼女もまた、いかにも普通の女子高校生でしかないかもしれない。 だが、長い二本の三つ編み、ほっそりとした姿の清楚な印象が頭に強く焼き付いている。 今日こそ、モデルになって欲しいと彼女に告げよう。 例えイメージ通りの絵が描けなくても、彼女を描く事が出来ればきっと幸せを感じられるだろう。高志の中の桜のイメージは彼女以外有り得ないのだから。 「高橋さん、ちょっと、話があるんですけど」 放課後、一世一代の勇気を奮い起こして彼女に声をかけた。 「何? 西尾くん」 彼女の周りにいた少女達が意味有り気にくすくす笑いながらその場を立ち去って行く。 「実は、今度の文化祭の絵のモデルになってもらいたいんです。勿論、ヌードとかじゃないですよ」 一息に言いたい事だけを告げれば、彼女は小首を傾げて。 「……何で私なの? もっと可愛い子に頼めば?」 冷やかしだと思われては堪らない。真剣なのだと解ってもらわなくては。 「高橋さんがいいんです。絵のイメージにぴったりなんです……だめでしょうか?」 「……ダメなんて事ないけど……学校では恥かしくて嫌」 「じゃあ、どこか場所を考えればいいですか?」 「……うん。それなら」 明日の土曜日、高志の家の近くの公園で。 まるでデートの約束を取り付けたようではないか? こんなに嬉しかったことも、こんなに緊張したことも無かった気がする。 とにかくスケッチブックと鉛筆、色鉛筆などの画材をバッグに詰め込む。 構図を考えながら風呂に入り、布団に潜り込んでからも、ずっと胸がうるさいくらいにドキドキしていてなかなか眠れなかった。 待ち合わせの時間より少し早く公園に到着した。 「いい天気で良かったな」 独り言を呟きながらパーゴラの下のベンチに腰掛けて由香里を待つ。 少しして彼女が約束どおりやって来るのが眼に入った。 何時もと違って私服の彼女は、長い髪を服装に合わせてゆったりと解いている。 「……あれ、遅れちゃったかしら?」 「いや、俺が早めに着いちゃったんで……」 何となく気まずい雰囲気になりそうで、そそくさと画材を取り出す。 「早速だけど、いいですか? そこのベンチに座ってもらっても」 「あ……うん。あのね、西尾君、なんで敬語使うわけ? 同級生なのにおかしいよ」 「そ、かな? あれ、俺、敬語使ってますか?」 「うん、今も使った」 思わず顔を見合わせて笑ってしまった。 それからは少し空気も和んで、まずは座った姿のクロッキー。 次は立ち姿。 さらさらとペンを走らせながら軽い会話を交わしたり時々注文を出したりして、でも何か感じる違和感。 『ああ、そうか』 「高橋さん、髪をいつもみたいにしてもらってもいい……かな」 先程敬語を笑われたのを思い出して普段のしゃべり方にしてみる。 「え……って、三つ編み?」 「そう、こう、二つに」 ジェスチャーも交えて説明する高志のリクエストに合わせて髪を結う由香里は、何故か無口になっていく。 その時になって高志は彼女が薄く化粧をしていることに気付いた。 「……えぇ〜っと、ごめん。そのお化粧も落としてもらっていい?」 無言で、彼女は口紅を拭った。 結局その日、何枚かのスケッチを仕上げて高志は、次の約束を取り付ける事にも成功した。 描こうとする構図もほぼ頭の中では固まってきて早く、早くと急かす声が聞こえる程だ。 授業を受ける時間も勿体無く思える程の高揚感に、毎日放課後が楽しみで堪らなかった。 絵を誰にも見られたくなくて、専ら自宅で絵筆を握った。 宏芳のしつこい詰問の事もあったが、むしろ由香里がモデルだと気付かれて冷やかされるのが嫌だったのだと思う。 あれから何回か彼女と約束して公園で会った。約束していなくても、イメージが固まらない時には呼び出したりもした。その度に学校では話さないような話をしたりして、二人の距離は縮まって来ている、と、高志は思っていた。 高志の携帯のメモリーには由香里のナンバーが登録されている。 由香里のそれにも同じ様に登録されているといい。 また会いたい。 由香里もそう思っていて欲しい。 そう、願っていたのだけれど。 文化祭まであと少し。 絵も仕上げるばかりになっている。 今までに無く思ったイメージを表現出来ているような気がした。 この週末には自宅で細かい所に筆をいれるつもりだった。 それなのに帰ろうとした矢先、部室に丸筆を忘れたことに気付いたのだ。 あの筆がないと仕上げには覚束ない。仕方なしに帰りかけた道を辿る。 夕暮れの校舎内には生徒の姿も疎らになっていた。 西に向いた美術室のドアの磨り硝子を透かして、黄昏の金色の光が廊下にも満ちている。 何気なくドアの前に立った時、高志は中から人の声が漏れて来るのに気付いた。 聞き慣れたその声。 「うん、いいね。今度はちょっと、髪解いてみて」 息を殺して、ほんの少しドアを引く。 隙間から、部屋の中を覗いた。心臓は今にも止まってしまいそうな程、高鳴っている。 西日に満たされた部屋の中。 机に腰掛けている、長い髪を解いて薄いブラウス一枚を身に纏った少女。 「ああ、やっぱ、その方がいいよ。綺麗じゃん」 「ありがと。柳沢君に褒められるなんて最高」 こちらに背を向けてスケッチする男。 少女は由香里だった。 彼女の表情は高志のモデルをしている時とは全く違っていた。 宏芳の言葉に、うっとりした様に口元に浮かんだ微笑。 その微妙な色彩を帯びた表情が“媚”である事に気付く。 「ねぇ、高志のモデルもしてるんだって?」 宏芳の声。 「うん、そう」 「あいつのこと、好きなの?」 低くて魅力的な、声。 「やだ〜。そんなんじゃないから」 「ええ〜、もっぱらの噂だよ? 怪しいって」 「冗談じゃないわよ。あの人、ドリーマーだし」 “ドリーマー”? 「なんか、イメージ押し付けられちゃって。モデルするだけならいいけど、困るんだ。化粧がどうとか、髪型がどうとか」 「だって、そうでしょ。髪が長かろうが短かろうが、化粧してようと、してまいと私は私なんだから」 「恋愛するんなら、私自身を見てくれなきゃね」 爆発するように、宏芳は笑った。 「君って、最高! その通り!!」 「そう? じゃ、ご褒美ちょうだい?」 そう言って由香里は、差し出すように宏芳の唇すれすれに、そのふっくらとした口唇を押しやった。 正視出来なくて、高志はその場を後にした。 あんな風に思っていたなんて。 押し付けだなんて。 もう、描けないと思った。 その日は、どこをどう通って家に帰り着いたのか覚えていない。 絵を描くなんて所詮は自分自身のイメージの具現化に他ならない。 高志がもっと大人なら、彼女の言葉をそう笑い飛ばすことも可能だっただろう。 しかし今の高志には、由香里に受け入れられていなかったという事実そのものが何よりもショックだったのだ。 自宅に帰って、夕食をとって、風呂に入って、そんな一連の動作の後。 携帯がメールの着信を知らせた。 『あ?』 宏芳からだ。 “家に来ない? 今日、親、ルスだし。ちょっと話そうぜ。2階に居るから” 迷った挙句に、勇気を奮い起こす。 宏芳の家はすぐ近くだった。 近所では有名な、大きな家。 2階には自分の部屋の他にアトリエに使っている専用の部屋がある。 そのアトリエの大きな腰高窓の傍で、キャスター付きの椅子に反対向きに座ったままの彼は、高志を見詰めて微笑んだ。 「何の用だよ」 「お前、今日、ドアの外に居ただろ?」 盗み見がばれて、返す言葉がない。 「夕方、見てたんだろ? 俺と、由香里と」 「そうだよ。だから? 良いよ。もう、絵は描かないから」 「あ? 何でそうなるんだよ?」 「彼女は、お前の方がいいんだろうが!」 言い放つと、宏芳は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。 「あの女の何が関係あるんだ?」 お前の絵と、俺の絵と。 「なあ、あの女は別にお前の事なんか好きでも何でも無かったぜ? だから」 あんな女をモデルにするのは止せよ。 「どうだっていいじゃん、あんなオンナ。テーマにだって相応しくない」 「どうだって良くない! 俺は、彼女のイメージで絵を描いたんだ!」 どこかがズレている。 「何言ってんだよ。あんな誰にでも靡くような女はお前に相応しくないって」 「そんな女が好きだったんだよ!」 恥も外聞も金繰り捨てて叫んだら、やっと理解されたようだった。 「……ごめん、高志。でも、あの女は止しとけよ」 売女だぜ。 「あの後、どうしたか見てないだろ? あの女は最後の一枚まで脱いで、俺の前に膝まづいて、それで」 聞きたくなかった。 それ以上は何も。 頭の中に桜の花びらが。 桜色の、雪のような切片が。 はらはらと、 ほろほろと。 振り返る由香里の輝くような笑顔が。 「言うな!!」 多分、運も悪かった。 椅子にキャスターが付いて居たこと。 宏芳が椅子に後ろ向きに座っていて、咄嗟にバランスがとれなかったこと。 腰高窓の外の、鉄製の手すりが錆びて脆くなっていたこと。 思い切り突き飛ばした宏芳の、肩の少し汗ばんでいた温度を一生忘れない。 「あ、あああ……っ」 最後は微かに響く声を残して、宏芳の身体は手すりの鉄柵を壊して下へ落ちていった。 それはスローモーションのように。 消えて行く彼の指が、高志に向かって伸ばされていた。 ――しばらくは呆然としていた。 窓から地面を見下ろす勇気も出ずに、力の入らない身体を自分の意思で動かそうと必死になっていると、ふと、視界の端に布の掛かったイーゼルが映った。 そんな事をしている場合ではない、宏芳がどうなったのかを確認するのが先だと理性は囁いたけれども、どうしても、その布の下にある物を見たくて溜まらなくなった。 震える指をやっとの思いで伸ばして、引きむしる様に布を取り去るとそこに。 宏芳の描いた桜の絵が有った。 キャンバス一杯にトンネルの様に描かれた桜の樹の下、小さく描かれたランドセル姿の二人の少年。 お互いに顔を見合わせて、微笑んでいるらしい。 右隅に、タイトルが書かれている。 “昔日” これは。 自分と、宏芳だ。 見た途端に解った。 まだ嫉妬も、羨望も知らなかった頃の自分がそこに居る。 声にならない悲鳴が口唇から零れ出た。 「え……それで?」 ――窓の下、庭へ降りて行った。 力の抜けきった宏芳の身体はずっしりと重かった。 背負いあげて、庭の隅の桜の樹の下へ運んだ。 空には、くっきりと満月が、薄い群雲を従えている。 泣きながら物置からスコップを探し出してきて穴を掘った。 人間がすっぽり入る大きさになるには、とても時間が掛かった。 やっと掘り上がった穴に、宏芳の身体を落とし込んで。 綺麗な顔に冷たい土を掛けた。 泣きながら、掛けた。 「きっと、今もあの桜の樹は宏芳の命を吸い込んで美しく咲き誇っているだろう」 何て言葉を掛けたらいいのかわからなくなって、俺は黙ったまま、隣に座った中年男性の顔を見詰めた。 西尾という苗字のその患者は、精神科の患者としては癖がないから初めての俺でも大丈夫、とセンターの職員に言われて来たのだけれど、こんな話を聞く羽目になるとは考えてもみなかった。 今遠くを見ている彼は、その瞳にどんな感情も映していない気がした。 ぞっとする。 チャイムの音が何処からとも無く聞こえてきた。 面会時間は終わりだ。 「おお〜い、高志……って、君は」 いつの間にか歩み寄ってきた医師。この患者の主治医だと、最初に聞いた。 「ボランティアセンターの人だよね。病棟に戻る時間だから。お疲れ様」 にっこりと人好きのする笑顔で微笑む医師に、耐え切れなくて今聞いた話をぶちまけようかと思う。 「……ん? あ、西尾さんがまた例の話をしたんだね。大丈夫、半分、嘘だから」 「半分?」 「そう、半分」 「彼は、友達を埋めたりしなかった。実際は、宏芳は二階から落ちたけれども、死にはしなかった」 医師は続ける。 「西尾さんは、柳沢宅の宏芳の部屋で、宏芳は庭で。二人とも意識を失ったまま、帰宅した柳沢の両親に発見された。当時は近所では、かなりセンセーショナルだったらしい」 そう言って、形の良い口唇で煙草を銜えて火を点ける。 「まあ、それっきり、彼はここにいるわけだ。臨場感有った? 半分は本当だからね」 夕暮れの風が少し肌寒い。 「……宏芳は、ガキだったんだ。多分、高志よりも、ずっと。それが取り返しの付かない事態を生むこともある」 その時、気付いた。 医師の胸に付けられたネームプレート。 『H,Yanagisawa』 「一生掛けて、償うよりほかない」 壊れた心を、関係を修復するために。 「出来ることはなんでもするより……ない」 さあ、行こうか。 医師はそう言って、患者の肩に手を掛けた。 〜完〜
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